【コラム#01】シンバルズ結成、ミニアルバム「Neat or Cymbal!」の頃の話

TWEEDEES CLUB

2025/07/07 18:18

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「全曲解説」と称して各曲についてお話をしていますが、それだけでは「楽曲誕生当時の空気感」みたいなものをお伝えできない、それでは面白くないと思ったので、ある程度の時期を区切りながら、作品の時代背景、その時の気分などの話をコラムとして書いていくことにしました。

あくまで「2025年の沖井礼二が回想する、当時の沖井礼二の目が見た景色」の話です。極めて主観的な記述であることは前もってお断りしておきます。

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【コラム#01】シンバルズ結成、ミニアルバム「Neat or Cymbal!」の頃の話

 

レコードやバンドばかりにうつつを抜かしてろくに講義にも出ていなかった親不孝者の僕は、とうとう大学を中退して音楽に集中する決意をしました。90年代半ば。毎週の新譜が歴史を書き換えているような時代でした。「そんな歴史の中に飛び込んでみたい」などと大それた事は全く思ってはいませんでしたが、「せめて一枚くらいはCDなるものを出してみたいものだ」「あわよくばそれを元手に音楽業界に潜り込めれば御の字」という、控えめながらも図々しい気持ちだったと思います。そして、そのためにデモ制作を開始し、結成したのが後に「シンバルズ」と名付けられるバンドでした。

 

新バンド構想は97年の、確か6月だったように記憶しています。「Cucumber!」の作曲が先か、土岐麻子さんを誘ったのが先か、もはや覚えていません。ただ、「就職するので嫌です」と乗り気でない土岐さんに対して「気楽なバンドだから」「楽しいバンドだから」と、出来の悪い勧誘を(恐らく電話で)したのを覚えています。今にして思えば、その「がっついていない」土岐さんの姿勢も、このバンドにぴったりだと勝手に感じていたようにも思います。(後のインタビューで土岐さんが「集まってみたら、『では、気楽とは、何か。』という沖井さんの考察が始まってうんざりした」というようなことを言っていたような気がします。すみませんでした)

 

そんな土岐さんからなんとか曖昧な承諾を引き出せたので、今度は矢野博康さんに「土岐という面白い後輩がいるのだが、このバンドに入らないか」と当時のバイト先から電話をしたのも覚えています。矢野さんからは「あー、いーよー」というような返事だったように思います。朧気な記憶ですが、これがシンバルズの誕生でした。正確な日付がわからないのが残念です。

 

90年代。今とは違ってアニメ文化やアイドル文化と、音楽文化や他のサブカルチャーはほぼ完全に切り離されており、またJ-POP的な地上波文化とサブカルチャー(今でいうところの「サブカル」とは指すものが違いました)的なものも完全に切り分けられていたような雰囲気でした。これを説明するのは今となってはとても難しいのですが。(余談ですが、この一年位前にエヴァンゲリオン第弐拾弐話「せめて、人間らしく」を夕方のテレ東で放映しているのをたまたま視聴し(チキンラーメンを食べながら見たのを覚えています)、「伝説巨神イデオン」('80〜'81。映画版は'82。)以来、永年アニメから離れていたにも関わらず、脳をぶん殴られたような衝撃を受けた僕は、翌日音楽仲間に「すごいアニメをテレビでやってる」とのっぴきならない熱量で語り、こいつ頭でも打ったのかというふうにポカーンとされたのを覚えています。まあなんというか、そういう時代だったのです。)

また、サブカルチャーという意味では、当時はクラブ文化が非常に盛んな時代でした。新しいスタイルや音楽がクラブを通じて目まぐるしく有機的に生まれては消え、それらに翻弄されるのは実に刺激的でした。しかもそれらは東京だけでなく、ロンドンやベルリンやパリ、京都などでも相互に影響を与えながら起きていて、いち音楽ファンである僕はその「同時多発性」にも心を躍らせたものです。インターネットも普及していないあの時代に、よくあのような現象が起きたものです。いや、もしかしたらネットが無いからこそ、だったのかも知れません。いずれにせよ、実に特別な空気感を纏った時代だったのは事実です。

 

そんな時代だったので、20代半ばの僕が「自分の音もちょっとだけ鳴らしてみたい…」と思ったのも致し方の無い事と思います。両親からは「お前は音楽教育も受けていないし、何より才能が無いのだからやめなさい」と言われましたが、やりたいのだから仕方ない、というのが僕の言い分でした。無茶苦茶ですね。しかし退学届を出して学生課を後にした時の爽快感を、僕は恐らく生涯忘れる事はないでしょう(ただし、「次のシングルのデモの締切が来週なのに、大学卒業の単位が足りない!」みたいな夢はその後10年くらいは見続ける事になります)。

 

そんな感じに動き始めた(後の)シンバルズですが、やる事といえば僕が作曲をしてはデモを作り、「新曲出来たよ」とメンバーに電話をし(メールも無かった)、週末には僕の狭いワンルームマンションに集まり、歌詞を作ったりデモの歌を録音したり、THE WHOやローリングストーンズやプライマルスクリームやビーチボーイズやビートルズやオアシスなんかのビデオを見たり、などというものでした。普通ならばある程度楽曲が揃ったらライヴをしてみようと思うものですが、当時の僕はまずCDを出すのが先、などと思い「ライブやらリハをやる時間が勿体ない、そんな時間があればデモ制作に充てるべきだ」という、尤もそうで的外れな考え方を自信満々に掲げていたので、のちにLD&K大谷社長に「ライヴは?」「バンド名は?」と聞かれた時に慌てたものです。大谷社長は本当によくあの状態のバンドのCDを出そうと思ったものです。感謝に堪えません。

 

初めてのレコーディングは緊張したものでした。当時東中野にあったバズーカスタジオに足を踏み入れた時は「これが、スタジオか!」と震えたものです(今でも、他のどんな施設よりも、レコーディングスタジオが大好きですね。僕にとってはこれ以上ない遊園地です)。

 

その時のリズム録音はアナログだったので、今のような便利な編集はもちろん出来ません。そんな環境でひとつひとつ音を重ねていく作業はそれはそれは刺激的なものでした。「こんなに楽しい事が世の中にはあったのか!」と思ったものです(いつまで経っても作業をやめない僕に、エンジニアさんや大谷社長、そして土岐さんや矢野さんはかなりうんざりしていただろうと、今となっては思います。ごめんなさい)。この時に味わった感覚が、今の僕の芯を形成してしまったのは間違いありません。

 

先ほども述べたように、この頃までのシンバルズはライブもせず、とにかくレパートリーを増やす事に集中していました。こんな曲があるから、次はこんな曲があるといいかも。その繰り返し。なので、ミニアルバム「Neat, or Cymbal!」の曲順は、全て「作曲された順番」になっています。無意識のうちに、デモ制作の順番がアルバムの構成になっていたわけです。僕がいまだに作曲という作業よりアルバム制作という作業の方に楽しみを感じるのは、この経験があったからこそと思います。

 

アルバム制作が終わって間もなくの2月、シンバルズは下北沢garageにて開催された「LD&Kナイト」にて初ライヴを迎えます。

セットリストは

 

  1. Cucumber!
  2. Happy Knight, Shiny Child
  3. Monday Morning Blues
  4. My Patrick

 

というものでした。三曲目の途中で僕のベースの弦が切れ、対バンの人からベースを借りたのをよく覚えています。このアクシデントで緊張が解け、苦笑い混じりの緩いムードになった事が後のシンバルズのカラーにも大きな影響を与えたと思います。

 

先行リリースのカセットシングル「I’m a Believer」で4/25にひっそりと(本人達的には華々しく)デビューし、ミニアルバムは1998年6/4リリース。初回プレスが工場のプレスミスで回収され、5/25に予定されていた発売日が延期になったドタバタもまた、いかにもこのバンドらしいエピソードと懐かしく思い出されます。まずはこんな感じにシンバルズは第一歩を踏み出したのでした。27年後にもまだ音楽を続けつつ、またこんな記事を書く日が来るなどとは、当時の僕は全く想像もしていませんでした。

 

この続きは次回のコラムで。

 

沖井

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